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15.06.23.最上采女助屋敷跡(墨田区本所1丁目)

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写真: 15.06.23.最上采女助屋敷跡(墨田区本所1丁目)

写真: 厩橋(墨田区本所1丁目) 写真: 最上采女助屋敷跡(墨田区本所1丁目)

左、最上采女助屋敷南西より西面。
右、南。隣は内藤山城守下屋敷跡。



2015年06月27日 18:08
最上采女助──
最上義連(よしつら)。
天保8(1837)年〜明治22(1889)年4月19日。

陸奥国棚倉藩 井上正春(従四位下 ・河内守、侍従。老中)5男。
改名、義連、五道。
内記、采女助。
戒名、晴雲院賣書信士。

江戸時代最後の最上家当主。
交代寄合。
最上義光以降、江戸幕府の役職についた数少ない当主(義智:高家、義実:大番頭)のひとり。
勤皇家。

最上氏──
※開幕後5代 義雅で最上氏男系の血は途絶えている模様。
6代義如の父は永井直増、次男(永井氏分家、2700石旗本。淀藩永井尚政5男尚春の嫡男)。
10代郷倍の父は旗本 久松松平康郷6男。

家紋は足利二つ引。最上氏は清和源氏 足利氏支流。三管領のひとつ、斯波氏分家。室町幕府の羽州探題を世襲できる家格だった。
伊達政宗の伯父 最上義光の血脈。最上氏11代 義光(開幕後初代。従四位上・左近衛少将。のち贈正四位)は出羽国山形藩57万石を領したが、3代藩主義俊の時に改易(元和8(1622)年8月21日)された。
(※最上騒動)
近江国大森藩1万石の小領主と減転封されたのちの寛永8(1631)年に義俊は死去(27)。
嫡男 義智が家督を相続するが、年少を理由に5000石へ減封された。以後、最上氏は交代寄合として明治を迎える。

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