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春日町交差点東 東富阪(本郷)

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写真: 春日町交差点東 東富阪(本郷)

写真: 春日町交差点西 富坂(文京区)松平丹後守上屋敷跡 写真: 出世稲荷神社(本郷1丁目)

右手1丁目、左手4丁目。



mixiアルバム「文京区本郷1丁目/文京/出世稲荷/」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000054075467&owner_id=32815602
2012年03月21日 15:08

11.03.07.
●文京区――
武蔵野台地東部で、区内は台地が広がる。
東の境界沿いと南側の神田川沿いは谷地で、区のほぼ中央部分も南北方向に大きな谷地が存在する。
戦前は本郷区と小石川区の東西に分かれていた。
本郷区は本郷台地、東は根津谷で台東区と区切り、茗荷谷・小石川谷で区切った西側が小石川区だった。
本郷台は小石川谷の支谷である鶏声ヶ窪(指ヶ谷)が入り込んで白山台を作る。
(けいせいがくぼ。さすがやとも、さしがやとも、そこここで読ませ方が異なる。)
本郷台は「山の手」の小指の位置になぞらえられている。
向ヶ丘は、上野台から根津谷を挟んで向こうの台地という謂いで、本郷台全体ではなく現 東京大学一円の本郷台部分だけを指していた。
根津谷は石神井川の流路跡で、同川が飛鳥山で現在の川筋となってからは、染井などの湧水を水源とする谷田川(藍染川)となった。
小石川谷は谷端川(大下水・千川)、指ヶ谷は東大下水という川が流れていた。小石川とは「石川の小流」という意味で、石川とは石川原を伏流する川をいう。
江戸時代に千川用水から分水を受けるようになって千川と呼ばれるようになったが、この時、大きな川となり、不忍通の猫股橋付近ではしばしば洪水を引き起こし、死者も出るような災害をもたらした。
小石川区は、茗荷谷・小石川谷の西、雑司ヶ谷台・小日向台・小石川台・関口台で構成される。
雑司ヶ谷台・小日向台・小石川台の間に谷間はなく階段状に低くなる。関口台は音羽谷で区切られ、神田川との間に伸びた舌状台地の先端部で目白台ともいう。
音羽谷は池袋の丸池からの弦巻川と、大塚からの音羽川が平行して流れていたが、いずれも暗渠化して水面を覗うことはできない。なお小石川台は山の手の薬指の部分に当たる。


・文京の由来――
区名案を東京新聞で募集した際、春日・湯島・富士見・音羽・山手などがあったが決定に至らなかった。偶然小石川区の職員案の中に「文京」があり、本郷区の統合交渉委員会に提案したところ、両区の特徴が端的に表現されていて文字も書きやすいことから新区名として決定した。昭和22年3月5日公布、同年3月15日施行。
水戸藩邸で大日本史が編纂され、孔子廟(湯島聖堂)・桜峯塾(昌平黌/師範学校→東京師範学校→東京高等師範学校・東京文理大学→東京教育大学→廃学/筑波大学新設)・帝国大学(東京大学)・吉祥寺栴檀林(駒沢大学)・台湾協会学校(東洋協会専門学校→拓殖大学)・女子高等師範学校(お茶の水女子大)・日本女子大学校(日本女子大学)・跡見女学校(跡見女子大学)・香蘭女学校(品川区に移転)・日本女学校(相模女子大)など学校の多い文教地域。
江戸時代から多くの文人が足跡を残している。
文化、文学、文教、文芸、文人、文明etc… すぐさま浮かんでくる言葉だけでもゆかりを覚えてしまう漢字。その歴史からしても“文”の京――なるほど! だね。



思い出した言葉なう。
“文目(あやめ)も分かぬ”………現代人になんて増えたことか。

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